家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム歴史発掘!技術的偉業10選 第8弾「東海道新幹線」 [2020年04月24日更新]
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日本中で電車が走っているのは、島秀雄の功績。
昭和32年年10月に実施された、モハ90系(後の101系)による高速度試験。リニア鉄道館にて
昭和30年5月、十河信二が第4代国鉄総裁に就任。十河は、線路を枕に討ち死にする覚悟で職務にあたりつつ、恩師後藤新平の悲願である広軌新幹線実現を心に秘めていました。悲願成就のために、秀雄を国鉄に呼び戻します。戦前の新幹線計画にも関わっていた秀雄は、「安次郎の弔い合戦をしないか」との十河の言葉に心を打たれ、技師長に復帰する決断をします。
昭和28年、鉄道技術研究所の三木忠直が従前の研究をまとめ、低重心・軽量・流線型の車両ならば、最高時速160km/h、東京大阪間4時間45分が可能との、画期的な論文を発表します。これを契機に、超高速車両委員会が発足。動力分散方式で7両の連接方式の車両構想がまとめられます。
これに着目した小田急は、昭和32年に鉄道技術研究所の支援を受け、新型ロマンスカーSE型を開発。秀雄は、このSE型を国鉄に持ち込んで試験を実施し、狭軌最高速度143km/hを達成します。続いて、新型通勤形電車90系で135km/hを記録。秀雄は電車列車による、新幹線の実現に着々と歩みを進めていきます。
父の弔い合戦を。十河と秀雄の固い誓い。
151系特急型電車「こだま形」の縮尺モデルと、高速度試験の速度記録163km/hの記念プレート。
昭和32年5月30日、鉄道技術研究所が「東京ー大阪間3時間の可能性」と題した記念講演を開催。高速新線を建設すれば、最高速度210km/h、東京大阪間3時間が可能だと、熱く語ったのです。いよいよ、新幹線建設に向けて、機運は高まりつつありました。
十河は運輸大臣に対し、東海道本線の増強が喫緊の課題と具申し、昭和32年に日本国有鉄道幹線調査会を設置。調査会は、東海道に新規路線を建設する必要があるとの結論をまとめます。問題は3000億円と見積もられた建設費でした。十河は、強引に1948億円まで抑え込み、この金額で報告させます。
昭和33年、最高速度110km/hを実現する、新たな特急型電車を開発。特急こだまが、運転を開始します。東京大阪間6時間半を実現し、初めて東京大阪間の日帰りが可能になります。こだま型は大好評。この後、全国に電車特急網が広がっていきます。昭和34年7月には、高速試験で163km/hを達成。新幹線が技術的に荒唐無稽では無いことを技術的に証明したのです。
1948億円で建設せよ、という無理難題。
新丹那トンネルで行われた鍬入れ式。国鉄総裁十河が鍬を入れる。リニア鉄道館にて
昭和34年3月30日、国会で新幹線総予算1972億円が承認されます。ただ、単年度予算では中断もあり得ました。そこで一計を案じたのが、佐藤栄作です。佐藤は、世界銀行から融資を受ければ、完工まで計画は停止できないはず、としたのです。昭和36年、総額8,000万ドルの借款が成立します。
昭和34年4月20日、十河が出席し、新丹那トンネルで鍬入れ式が執り行われます。東海道新幹線建設工事は、ここにいよいよ本格着手となったのです。大正7年に始まる悲願は、漸く成就しつつありました。しかし、十河の肩には、常に予算の問題が重くのしかかっていました。
新幹線建設では、思い切った標準化が進められ、建設費の低減を意図していました。長大橋梁はすべて同一設計のトラス橋とされた他、高架橋は可能な限り回避し、盛土を多用しています。
1962年6月、神奈川県で先行着手したモデル線が竣工。ここに2編成の試験車両が持ち込まれ、世界初の高速鉄道試験が開始されます。
世銀の借款成立と、モデル線での走行試験。
神奈川県綾瀬市から小田原市にかけて、先行建設されたモデル線で試験走行を行った試験車両。[左上]A編成。[右上]B編成。この試験結果を元にC編成が製造され、走行試験が実施された。
[左下]モデル線試験最終日の高速度試験で、B編成が達成した256km/hを記念した速度記念プレート。[右下]モデル線を走行する試験車両。4枚すべて、リニア鉄道館にて
モデル線での技術開発は、極めて順調に進みます。速度向上試験では、256km/hを達成。営業運転速度200km/hでも、充分安全であることが確認されたのです。秀雄は、新幹線開発に際して、新基軸の採用を極端に回避していました。莫大な国家予算を投じる高速鉄道計画。リスクの高い新技術よりも、信頼性の高い従来技術の高度化に重きを置いたのです。
唯一新採用されたのが、自動列車停止装置(ATC)です。高速走行では信号の視認が不可能なため、車上信号方式を採用。また、制動距離が数kmに達するため、速度超過時に自動的に減速させる速度照査を採用しています。これらにより、高速走行時の安全性を確保したのです。
東海道新幹線は、開通以来有責死亡事故ゼロという、世界最高の安全を確保しています。ATCがこれに大きく貢献したことは、間違いありません。
順調に進む技術開発に対し、十河は最大の問題に直面していました。それは、狂ったように上昇する物価でした。
極端にリスクを廃し、技術的完成度を高める。
予算は青天井で上昇し、昭和37年時点で資金は既に底を付いていました。国会の追求に対し、十河は総額2,926億円、954億円の追加で全て間に合わせる、と啖呵を切ります。しかし、それは嘘でした。十河は、4月27日任期満了を以て辞任することを発表。その翌々日、朝日新聞が、予算が650億円不足していることをスクープします。5月19日、予算超過の全責を負って十河が勇退。31日、秀雄も国鉄を去ります。
昭和39年10月1日、東海道新幹線の出発式が盛大に催されます。しかし、そこに二人の姿はありません。国鉄は、十河、島を招待しなかったのです。
島は、テレビで出発式を見つつ、窓からそっと走りゆく姿を眺めていたと言われています。十河も、家でじっとテレビで見守っていたと伝えられます。今、東海道新幹線東京駅18・19番ホーム先端には、その業績を讃え、十河信二のレリーフが飾られています。十河は、今も確かに新幹線の安全を見守っているのです。