家にいよう。特別企画 クラブ・スバリズム歴史発掘!技術的偉業10選 第9弾「VW TypeI」 [2020年04月25日更新]
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エンジニアなら知っておきたい。技術的偉業10選。
温故知新。古きを知り、新しきを知る。古きものには、様々な知見が内包されています。数多の失敗を重ね、多大な犠牲を払い、偉大な挑戦があって、モノは誕生します。しかし、その中には現代では全く見落とされてしまっているものも少なくありません。だからこそ、新しきを造る人々は、古きものを良く知る必要があるのです。
もちろん、高度に電子化されつつある現代技術と、20世紀の技術には大きな隔たりが存在します。自動車一つとって見ても、中身は全く似て非なるものへと進化を遂げています。
一方で、その本質は何も変わっていません。その本質を突き詰めて見ていく限りに於いては、技術に古いも新しいも無いのです。
ここに列挙したのは、小生が独断で選んだ、特筆すべき技術的偉業の数々です。もし、興味があれば、書籍をご購入の上で詳しく理解されることをお勧めします。
20世紀最高の自動車設計者、ポルシェ博士。
自動車史上に燦然と輝く、屈指の天才技術者。それが、フェルディナント・ポルシェです。
今では、「ポルシェ博士」の名で広く親しまれ、20世紀最高の自動車設計者に選ばれる伝説的な存在となっています。しかし、彼は実際の処、高学歴の秀才ではありません。実は、大学すら出ておらず、徒弟から身を起こし、苦学を重ねた叩き上げの苦労人なのです。
フェルディナント・ポルシェは、1875年オーストリア領のボヘミア・マッフェルスドルフに生まれます。ブリキ細工職人の父は、長男アントンが早逝したため、フェルディナントに跡を継がせようとしていました。
しかし、フェルディナントの興味は「電気」にありました。父の目を盗んで、屋根裏でこっそり勉強を重ねていったのです。父は渋々、ライヒェンベルク国立工業高校夜間部への入学を認めます。卒業したフェルディナントは、1894年に単身ウィーンに出ます。
世界初のハイブリッド車両を1900年に実現。
フェルディナントは、たった25才で世界初のハイブリッド車を開発する。Unknown author / Public domain
フェルディナントの興味は、当時最新技術であった電気と自動車でした。そこで、電気機器会社で働きつつ、夜はウィーン大学工学部の講義を聴講し、技術的知識を身に付けていきます。そんな折、彼の職場にローナー電気自動車が修理で運ばれてきます。湧き上がる興味を抑えきれないフェルディナントは、ローナー社に転職してしまいます。23歳、1898年のことでした。
1900年のパリ万博に、ローナーポルシェという電気自動車を出品しています。前輪にはホイールインモーターを採用するなど、素晴らしく先進的な技術を備えていました。さらに、これを改良して、蓄電池の代わりに、エンジンと発電機を搭載。世界初のハイブリッドシステムとしたのです。
1906年、フェルディナントはアウストロ・ダイムラーに技術部長として転じます。ここから、フェルディナントは数々の自動車の設計を手掛けていくことになります。特に、レーシングカーは圧倒的な性能を発揮してレースを席巻しています。
苦学が報われた瞬間。名誉博士号の授与。
低出力ながら、小型軽量。その思想は、60年代以前のポルシェに一致する。Saschaporsche / Public domain
1912年には、ダイムラーで航空機用空冷水平対向4気筒OHVを手掛けています。英国でライセンス生産された優秀なこのエンジンには、後のTypeI用エンジンとの間に驚くほどの共通点を見出すことができます。
フェルディナントの生涯最上の喜びは、1917年に授与されたウィーン工科大学の名誉博士号でした。叩き上げで重ねてきた労苦が報われた瞬間だったのでしょう。フェルディナントは子供のように喜んだと伝わります。
1918年、第一次大戦での敗戦によりオーストリア=ハンガリー帝国は解体。国民が窮乏する様に心を痛めた博士は、価格・維持費が安価な小型車が必要だと訴えます。しかし、その必要性を理解するものは誰もいません。
博士は、友人のサッシャ伯爵の援助により、その名を付けた小型スポーツカーを開発し、レースで大成功を収めます。にも関わらず、経営陣は冷淡な態度に終始し、レース中の死亡事故の責任をすべて博士に押し付けてきたため、博士は即日辞表を提出します。
辞表を叩きつけまくる、ポルシェ博士。
後のVW TypeIを惹起させる、Type12の姿。User Mb1302 on de.wikipedia / CC BY-SA
1923年、ダイムラー・モトーレンに主任技術者兼技術部長に就任し、ドイツ・シュトゥットガルトに移住します。ダイムラーでも、博士は小型車開発に精を出すものの、戦後の不景気を理由に拒否されます。経営陣との軋轢は多く、1928年には辞表を提出しています。
1929年、今度はオーストリアのシュタイアに転じます。しかし、経営は芳しく無く、アウストロ・ダイムラーに吸収。辞表を叩きつけた相手が経営を握るとあって、再び博士は辞することになります。
1931年秋、博士は受託設計を業務とする、自身のオフィス「名誉博士フェルディナント・ポルシェ株式会社」を設立します。博士は漸く安住の地を得たのです。博士の設計には、タイプ◯と番号が付けられています。最初は、ヴァンダラーから受注したタイプ7。そして、タイプ12が、後のVW・TypeIの原型です。1号車をタイプ7としたのは、タイプ1では顧客が不安がる、というのが理由でした。つまり、タイプ12は6番目の設計ということです。
ナチス・ドイツの下で動き出す大衆車構想。
Type32。完成度が高まり、TypeIとの間に相当の共通点を見いだせる。Palauenc05 / CC BY-SA
タイプ12は、1.5L空冷水平対向4気筒をリヤに搭載、バックボーンシャシー、トーションバーによる独立懸架、そして甲虫のようなスタイリングを備えており、そこかしこにTypeIの面影を見ることができます。タイプ12は、2輪メーカーのツュンダップの発注により1932年には3台。1933年には、NSUの発注でType32を3台を試作。試験でも良好な成績を残します。
博士が、理想とする大衆車がやっとカタチになったのです。しかし、計画は再び停滞してしまいます。
1934年、漸く博士の大衆車構想に興味を示す人物が現れます。あの、アドルフ・ヒトラーです。ヒトラー肝いりとなった大衆車構想は、「Kdf-Wagen」と命名され、ナチスドイツの国民車計画として遂に本格始動します。
ヒトラーの提示した条件は、信頼性に富み、維持費が掛からず、成人4人が乗車でき、巡航速度は100km/h以上で燃費は14.3km/L。それを1,000マルク以下で販売せよ、というものでした。
ポルシェ博士の悲願が漸くカタチになる。
Kdf-Wagenの広告。1939年 Bundesarchiv, Bild 146II-732 / Unknown / CC-BY-SA 3.0 / CC BY-SA 3.0 DE
1936年秋には2台の試作車が完成。エンジンは995ccで、ドアは後ヒンジで、リアウィンドウがないなど、まだいくつか相違点はあるものの、この時点でほぼ原型は完成していました。
1937年には、ダイムラー・ベンツの手により試作車30台が完成。1938年には、ヒトラー立ち会いのもと最終プロトタイプが披露されています。こうして、年産5万台の生産準備は着々と進められていきます。ところが、1939年再び計画は頓挫します。第二次大戦が勃発したのです。生産は、軍用型のキューベルワーゲンとシュビムワーゲンに絞られてしまいます。
1945年、ナチス・ドイツが降伏し、連合国の進駐が始まります。Kdf-Wagenも連合軍の管理下に入りますが、幸運にも接収から逃れます。英国人将校アイヴァン・ハーストは、このクルマがドイツ復興の大切な足がかりになると考え、ドイツ人の手による生産再開を目論みます。1945年中には、1,785台を生産。以後、VW・TypeIと名を変え、世界に広く販売されていきます。